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豊科成相新田に立つふたつの火の見櫓 [火の見櫓]

豊科の古くからの市街地はおおまかにいって成相と新田の二地区に分かれますが、
一般にはたいてい成相新田と一括りで表現されることが多いですね。
まちが一体化しているので両者の境界も複雑に入り組んでいて
地元の人でもはっきり分からなくなってしまっていますが、
その点では穂高町と等々力町の両村でもつ穂高のまちなかも似たようなもんですね。

成相も新田もそれぞれに産土神を持ち、公民館もそれぞれに存在。
そして火の見櫓も両者にきちんと存在しています。

両者について現時点で有名(?)なのは新田のほうの火の見櫓だと思います。
国道147号沿いにあって比較的背も高いので、けっこう目立ちます。
2012.01.07.1.JPG(アップで撮った写真がなくてスミマセン)
安曇野界隈ではスタンダードな3本の脚注。
踊り場が2層あって傍らには消防団詰所。
半鐘は途中の踊り場と見張り台のそれぞれにあり、
また近年ありがちなスピーカーが付属されていないのがデザイン的にグッド。
隣接して新田地区の公民館もあって、まさに地域の拠点ですね。
昨年春のふるさとウォッチングでもこの火の見櫓は紹介しましたが、
ヤグラー入門編としてはまず押さえておきたい基本が勉強できると思います。

いっぽう成相の火の見櫓は少し奥まった場所にあって目立ちません。
2012.01.07.3.JPG
(火の見櫓が目立たない、というのも本来の目的からしてどうかと思うのですが。)
2012.01.07.4.JPG
2012.01.07.5.JPG
背丈も新田に比べれば低くて途中に踊り場もなく、ハシゴが見張り台まで直登です。
脚注の絞りが曲線でなく、背丈のわりに足元がワイドなので
なんとなくずんぐりむっくりな印象。
じつは成相の火の見櫓は新田と同じくもとは国道沿いにあったのですが、
いつの頃だったかこの場所に移転してきたという経緯があります。
(移転した時期は以前聞いたのですがメモしてなくて失念しました。)

移転といっても元々国道沿いにあった火の見櫓はかなり高層だったようで、
古い写真からみても新田のそれに勝るとも劣らぬ立派なものだったことが分かります。
2012.01.07.6.jpg
現在のまちづくり会館脇、うろたえ橋と呼ばれる地にありました。
(現在のものとの関係性は地元住民の聞き取り調査が必要ですかね。)
2012.01.07.2.JPG
現在の場所は成相交差点から堀金に向かう道の、大糸線の跨線橋脇に立っています。
これも昔からずいぶん使っている道なのに、最近までまったく気づかぬ存在でした。

ちなみにこちらは新田地区の昔の写真。
2012.01.07.7.jpg
写っている状況から推測して今の火の見櫓とは道路を挟んだ反対側にあったように感じます。
(地元の年配の人にでも今度裏付け調査してみないと。)
しかもなんとなく木製か?って感じのにおいがしますが、どうでしょう。

昔の写真に火の見櫓が写っているのってけっこう貴重で重宝しています。
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似て非なるもの、それが火の見櫓 [火の見櫓]

安曇野市三郷、楡地区にある火の見櫓。
2011.12.23.3.JPG(ハシゴ柱を控え柱が支えるタイプ)
昨日、三郷で用事を済ませたあと集落のなかを走行中にたまたま通りがかりまして。
赤錆びてちょっと可哀想な感じのこじんまりした櫓ですが、
スタイルがノーマルタイプではなかったので立ち止まって撮影。
小ぶりですが道祖神との関係がのんびりした集落の雰囲気を醸し出しています。
この櫓のある小路は以前にも幾度か通ったことのある道のはずなのですが、
たぶん火の見櫓中毒が発症する前だったので記憶に残っていないのだろうと思われ。

それでもどこかで見た感覚もあり、ふと気になってU1さんのブログにお邪魔したら・・・
ありましたありました。

透明タペストリーの2010年6月5日のエントリー記事。

安曇野市三郷にて、とあるので間違いない・・・と、思ったら。
似ているけれども、よく見ると微妙に違う。
頭のデザインが違うし、なにより自分が見たのは半鐘だけどもリンクのは盆鐘っぽい。
2011.12.23.1.JPG(昨日見た櫓の頭部)

で、これは現地で確認せねばと、用事を済ませて夕方暗くなる前に急ぎ調査を実施。
三郷というある意味広大なエリアを某事情通の情報を頼りに探索し、
意外にもあっけなく発見……と、思って帰って画像チェックしたらまた違った。。。_| ̄|O
2011.12.23.4.JPG
2011.12.23.2.JPG
今日見たのは昨日の櫓と同じ楡の地区内。
頭部のデザインは昨日のと今日のとは似た感じ(但し避雷針?の長さは違う)だけれど、
リング式ターンバックルを使っている点や控え柱からの支え方などは
今日のとU1さんのところにある画像のもののほうが似ている感じがするし。

自力で探すのも骨が折れそうなので、U1さんに情報をもらって
そのうち再調査することにします。。。
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こども病院の塔とコラボする中曽根の火の見櫓 [火の見櫓]

2011.12.06.1.JPG
安曇野市内、豊科の中曽根地区にある火の見櫓。
すぐ近所にこども病院があり、朱色の屋根が眩しい塔と
火の見櫓のコラボレーション(?)を望むことが出来ます。

2011.12.06.2.JPG
常念岳も背景に見えて眺望のいい場所です。
火の見櫓のすぐ背景にある森は諏訪社の鎮守の森。
足元の広場と建物は中曽根公民館。

2011.12.06.9.JPG
櫓のスタイルはきわめてスタンダードなもの。
中規模以上の背丈があるわりには途中の踊り場がないなぁ、と思っていたら
ちゃんとありました。踊り場部分は手すりがないので遠めに見た時はすぐ気づかなくて。
シンプルな構造ですね。

ところで安曇野市のなかでも旧豊科町の高家方面の火の見櫓は、
櫓本体に“火の用心”の文字板を貼り付けているものが多い気がします。
ここのように一文字ごとに板を作って大きく掲示しているものもあれば
コンパネ一枚程度のものに描いた文字を掲示してあったり。
地域の消防団でそういう決め事があったのでしょうかね、どうでしょう。
確認したのはほんの数基なので、たまたまかもしれませんが。
2011.12.06.6.JPG(熊倉公民館前)
2011.12.06.7.JPG(飯田公民館前)
2011.12.06.8.JPG(信濃教育会生涯学習センター前)

火の見櫓の本旨からすれば防災を呼びかける文字板はあっても不思議でないのですが、
なんにもない櫓のほうが多いなかで、逆にあることが珍しく感じてしまいますね。
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屋根をまたいだ火の見櫓(池田町) [火の見櫓]

池田町正科で見つけた火の見櫓。
2011.10.28.1.JPG
消防団詰所の屋根に乗っかっている、、、というより
建物と同化して存在しているという感じですか。

2階建て建物の2階入口まで同じ階段で上り、
その踊り場から梯子で屋根上部の踊り場へ。
タワー型の上部だけを切り取って据えつけたかのような外観です。
もしかしたら本当に元々あった櫓の上部を切り取って設置したのかも。
踊り場や柱脚が建物と一部一体となっているのと
ベースのコンクリートは近年のものではなさそうなので
以前からこの状態だっただろうと想像。
2011.10.28.2.JPG

塗装は最近になって施したらしく、おひさまの光に輝いていましたが、
そのおかげで渋い色合いの半鐘がかえって目立って見えていました。
2011.10.28.3.JPG

築造年など近所の人に聞けば分かるかな?とも思ったけれども、
道行く人は誰もなく、時間も無かったので調査はまたの機会に。
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「“火の見ヤグラー”養成講座(?)」に参加してきました [火の見櫓]

火の見櫓を愛好する人
=通称“火の見ヤグラー”。またはシンプルに、“ヤグラー”。

シャネルを好む人は、シャネラー。
安室奈美恵のファッションが好きな人は、アムラー。
マヨネーズ大好きな人は、マヨラー。

で、火の見櫓好きは、火の見ヤグラー。。。
↑ ↑ ↑
今宵の講座の主催者であり会場となった三郷にあるカフェバロのマスターが命名。
けだし名言かな。(^_^)

というわけで、今宵はカフェバロ主催のミニミニ講座の第4回目、
「火の見櫓っておもしろい」に参加してまいりました。
2011.09.03.ヤグラー2.JPG

講師は透明タペストリーというブログで火の見櫓を熱く語り続けているU1さん。
火の見櫓に関心を抱いたのが近年になってからだとは思えないほど、
その櫓鑑賞に対する思い入れと知識の深さに圧倒されます。
2011.09.03.ヤグラー3.JPG

今日の話の内容も充実していて、珍しい櫓型の紹介などにとどまらず、
火の見櫓の鑑賞ポイントや、火の見櫓の構成要素に関する話など多種多様。
歌川国芳の描いた幕末の浮世絵に登場する火の見櫓と東京スカイツリー(!?)の話や、
歌川国芳.jpg
五重塔を参考事例に逓減率の話まで飛び出しての櫓のプロポーション話など、
2011.09.03.ヤグラー4.JPG
今後の自分のヤグラー活動(?)にとって大いに参考となるネタでした。

さまざまな火の見櫓が全国各地に見られる中、
長野県内の火の見櫓は推計で2300に上るという調査資料もあります。
これは自治体なんてレベルではなく、小さな集落単位で最低1基ずつは存在しているようなもの。
火の見櫓は地域のシンボルであり、そこにある半鐘は住民にとって心の拠り所だったでしょう。
現在では都市部を中心に火の見櫓の存在意義が薄れ、次々と撤去解体が進んでいるなか、
長野県下ではまだこれだけ多くの火の見櫓が残されているというのは、
ある意味地域のコミュニティーがまだ生きている証左だともいえるわけで。
2011.09.03.ヤグラー5.JPG(おらがむらの火の見櫓。)
2011.09.03.ヤグラー6.JPG(穂高のまちなかにある大型の櫓。)

最近では田舎エリアでも本来の用途を失ったうえに老朽化の激しい櫓は
どんどんと撤去が進められているという寂しい話をよく耳にしますが、
地域の守りの要でもあった火の見櫓をこれからも出来るだけ長生きさせてあげられるよう、
ヤグラーとしてその存在価値を周りに押し広めてゆければいいなと思います。

それにしても、、、
講座内容からして年配の人が多いかなという先入観がありましたが、なんのなんの。
若い人もけっこう居て(っていうか、自分より明らかに若い人が半数ほど)、
火の見櫓が世代を超えて関心を集めているという状況に、ヤグラーのはしくれとして
妙に嬉しくなったり、今日一緒に受講した者同士で勝手に連帯感を感じたり。(^_^)

来月にはまたNPOのふるさとウォッチングが開催される予定で、
ガイドコース上にはその地区の火の見櫓が存在します。
今日の講義内容を参考に、ヤグラー布教に努めたい所存でございます、はい。
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おらが“むら”の火の見櫓は銀座のあのお店が寄贈してくれたもの [火の見櫓]

前回エントリーに続きまして市民タイムスより。

シリーズ読みきり連載「近代化遺産を歩く」、
今週の遺産“ワシントン靴店有明工場”。

銀座ワシントン靴店の創業者は穂高出身の東条たかし。
戦争による工場疎開で郷里の地に移転、操業再開。
戦後も引き続き工場生産を続け、最盛期には800人にものぼる従業員がいたらしく。
毎朝、多くの従業員が穂高駅から工場まで列をなして歩く様子については
いまでも地元の人たちの話のネタになっているほど。

工場は平成15年に操業を停止していますが、
工場跡はいまでも同地に残り、靴を生産していた建物などは
貸し倉庫などとして再利用されていて、夜も建物に明かりが灯っています。

………で、今日の話題はさにあらず。
同じくおらが“むら”=安曇野市穂高有明の橋爪区にある火の見櫓のことで。
これまた前回エントリーに続く話で恐縮ですが、ご多分にもれずウチの集落にも
火の見櫓がありまして、公民館や村の鎮守“北野神社”などが集まる中心地で
静かに佇んでいます。

2010.12.12.橋爪の火の見櫓1.JPG
(有明山を背景に建つ火の見櫓。)

各地に残る火の見櫓は基本的に住民の力を集めて建てられたものなわけですが、
ときに有力者や篤志家などによる資金援助なども垣間見られたそうで。

このウチの区の火の見櫓はワシントン靴の寄贈によるものらしく、
櫓に貼り付けられている銘板にそのことが記されています。
2010.12.12.橋爪の火の見櫓2.JPG
(クリックで拡大)

建設当時に地元と工場とでどういったやり取りがあったか・・・
(年長の方に尋ねれば分かる話とはいえ)新住民の自分に詳しい経緯は分かりませんが、
市民タイムスに取り上げられた近代遺産としての工場と並び、
おらが“むら”の近代遺産、安全遺産として生き残るこの火の見櫓が
これからも地区のシンボルとして生き永らえてくれることを願っています。

2010.12.12.橋爪の火の見櫓3.JPG
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火の見櫓に関する中毒症状が強まる日々 [火の見櫓]

市民タイムス紙にて、火の見櫓に関する記事が二日連続で出まして。

ここ数ヶ月、どうにも各地にある火の見櫓の存在が気になってしかたない日々が続いていて。
その経緯については追々語る機会もあるだろうと思うので、ここでは割愛。

で、まずは12月4日付、“火の見やぐら解体へ”のタイトル記事。
松本市波田に建つ数箇所の火の見櫓が老朽化による倒壊被害防止などを理由に
解体されることになったということらしく。

火の見櫓は地域の安全を見守り続けてきた防災施設ですが、
そうした実務的な意味合い以上に地域のシンボル的存在として
まちづくりの中心にあったのが火の見櫓でした。

防災無線など設備の充実や消防組織の変遷に伴って
火の見櫓は実質的な役目を失い、全国で解体による減少を続けているなか、
それでも長野県は火の見櫓の残存数は相当なものだと言われていて、
ある調査結果からくる推測では県内に2200~2300基程度残るという指摘もあるほど。
市町村単位を超えた各集落単位、つまり明治期の小規模な町村単位で
存在しているといっても差し支えないところでしょう。

都市部ほど火の見櫓の残存数が少なくなるという指摘もあることからすれば
長野県は相当な田舎だとも言えるわけですが、
逆に火の見櫓が地域住民の安全と誇りを架けたシンボルだと考えれば
その残存数の多さは地域の繋がり・・・地域コミュニケーションが
まだしっかり残されている証左とも考えられるわけで。

今回記事にあった波田の解体される櫓の件。
老朽化の倒壊防止ともなれば解体もやむなしといった感じもしますが、
地域のシンボルタワーが無くなってしまうのはやはり寂しい思いがしますね。

もう一点の記事は今日、12月5日付。
“防火願い輝くやぐら”というタイトルで、
同じく波田地区にある火の見櫓を取り上げていて、
やぐらに電飾を施して夜の集落にひと際目立っている様子が
写真つきで紹介されています。
当該の櫓は国道158号沿いにそびえ立つけっこう大型の火の見櫓で、
波田方面へは仕事関係で出向く機会の多い私も毎日のように目にしていますが、
まあ夕暮れ以降は昼間のそれ以上にたいがい目立っていまして。

電飾で建築物を飾り立てるのは正直なところあまり好きではないのですが、
こうしたスタイルと発想の装飾はユニークでよいかなと。
新聞掲載の写真をそのまま載せるわけにも行かないので、
電飾やぐらの画像はまた機会があれば撮影してアップできたらと思います。

(12/6 追記)
電飾やぐら、本日撮影してまいりました。
2010.12.05.電飾火の見櫓.JPG
なんとなく、ほのぼの・・・ですかね。(^^)

以下の本はオススメの一冊。


地域の景観、風景に溶け込んでいる安全遺産としての火の見櫓を愛情を持って研究し、
そしてその姿を楽しんでいる本書は火の見櫓中毒患者・・・
もとい、火の見櫓ウォッチャーのバイブルになり得るのではなかろうかと思われ。。。

2010.12.5.火の見櫓@熊倉.JPG
(写真は先月のふるさとウォッチングで訪れた熊倉地区の火の見櫓です。)
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