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下鳥羽大同神社はファミリーな狛犬たちが良い [寺社・狛犬]

安曇野市豊科下鳥羽にある、大同神社。
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国道147号(正確には旧国道147号線。現在は県道316号線だそうな。)を、
松本方面より北上してしばらく走ると左手にりっぱな鎮守の杜が。
もとは鳥羽地域全体の神様として諏訪大社より勧請を受け、
寛文6年(1666)に上下両鳥羽に分村された後、
その後享保年間になって上鳥羽に新しく諏訪神社ができたことで、
現在では下鳥羽地区単独の産土神として鎮まっています。
上鳥羽の産土社は今も昔も諏訪神社の名称そのまんまですが、
明治初年の頃はこちらの大同神社も諏訪神社と名乗っていたそうです。

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(境内を囲む玉垣沿いに流れる水路がいい感じです。)

で、ここにはワイドに広がる立派な鬣をもつ松本狛犬が一対。
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阿吽ともに子獅子を抱きかかえていて、
阿形の子獅子は毬を、吽形の子獅子は牡丹をそれぞれ抱いています。
堂々とした迫力ある狛犬ですが、子獅子の様子がなんとなく
ほのぼのとした気分にさせてくれます。

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阿形の台座には“大正4年11月起工”、
吽形の台座には“大正5年5月竣工”とあります。
起工年月が記銘されているのは珍しいですね。

石工設計請負人として3名の記銘がありました。
白鳥文治郎、白鳥近太郎、白鳥留雄。
松本市の石工さん。親子でしょうかね?

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石灯籠から続く境内はとてもすっきりしています。
拝殿に鎮まる随身像は市の有形文化財。

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本殿は一間社流造。

境内から南の方角を望むと、隣村の鎮守の杜が見えます。
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これが上鳥羽の諏訪神社。
江戸期に分村して既存の社から外れてしまった集落では
新しく社をたてるか、旧村のときと同じ社を二村合同でもつか、
いづれかになりますが、鳥羽の場合は新たに創建したようですね。
次はやはりこの上鳥羽の諏訪神社を訪問せねば。

下鳥羽大同神社の位置↓

より大きな地図で 下鳥羽大同神社 を表示
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子安諏訪神社(松本市奈川)の神殿狛犬 [寺社・狛犬]

奈川の現場へ通う道すがらにある神社が気になって
現場仕事を終えた帰りの道中に2~3度立ち寄ったりしたことがありまして。

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松本市奈川支所の真向かいにある、子安諏訪神社。
たぶんこの地域ではいちばんおおきな神社ではないかと思うのですが、
この神社で毎年5月に行われるお祭りで奏でられるお囃子は歴史があり、
“古宿の祇園囃子”として市の無形民俗文化財となっています。
松本のたから」(松本市文化財のHP)

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本殿は覆屋に覆われて保全されており、
向拝の木鼻に彫られた獅子も表情豊かな印象です。
が、やはりここの注目は、本殿縁に鎮座する石造の神殿狛犬さんでしょう。

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制作年代は不明。
旧奈川村の村誌にある神社の解説文には狛犬に言及した箇所がなく、
もしかしたら本体に裏書などあるのかもしれませんが、
さすがに無断で手に触れてひっくり返したり覗き見たりするのは躊躇われて。
支所の職員に尋ねても、どなたも知らない模様で、
神社に詳しい氏子さんを紹介頂けたのですがあいにくその日はご不在で。
また再訪の折に運よく氏子さんにお会いできれば
なにか情報がつかめるかなと思ってますが、そううまくことが運ぶかどうか。。。

年代が不明とはいえ、単純に仕分けするなら、この狛犬はまさに“はじめちゃん”。
ただしあまりに素朴すぎるその外観ゆえに、神殿に置かれていなければ
まるで石工見習いの習作かと思い込んでしまいそうなほど。

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それと、石の種類って自分はあまり詳しくないのですが、肌が青白っぽい感じなので
もしやこれが越前産出の笏谷石というものかもしれないと、勝手に推測。
(違ってたらすみません。石工さんはじめ専門家のご教示をお願いします。)

越前に限らず加賀や飛騨地方でも笏谷石を使用した狛犬はかなりあるようで、
笏谷石狛犬として分類がなされることがあるほど。
小型神殿狛犬として造られることもあるようなので、
野麦街道を通じて北陸や飛騨地方と交流があったであろう地理的状況から察するに、
石材を含めた同地域の狛犬文化が奈川にもたらされたと考えても不思議ではない、
、、、と、思うのですが。はてさて、真実はどうなんでしょうね?

で、この神殿狛犬に惹かれて写真を撮り続けていたら、
人気もないのにどこからかチクリチクリと肌を刺すような視線を感じて。

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どうもその視線は神殿内部から向けられているようで、
格子越しに内部に目を凝らしてみると。。。

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うっ、いましたっ!
ここにも神殿狛犬と思しきお姿が。

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きちんと阿吽揃っていらっしゃるようですが、
ハッキリした正体は部外者が立ち入れる範囲からでは判別がつかず。

やはりこれは、地元の氏子の長老にぜひお話を聞かせてもらわねば。

(追記)
地図を付記しました。

より大きな地図で 子安諏訪神社(松本市奈川、古宿地区) を表示

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昔の名前で出ています、という神社 [寺社・狛犬]

前回エントリーの続き。
上波田関連記事の3部作(?)最終回。

松本市波田が一昨年3月まで東筑摩郡波田町だったのは
近隣に暮らす私たちはもちろん知っていることですが、
この町名がかつて、昭和8年頃までは“波多”と表記していたこと、
自分はつい最近になって知った次第。

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田村堂など若沢寺の遺構が残る地に隣接する、波多神社。

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仁王門と明神(台輪)鳥居が並立している姿に
かつての神仏習合時代の面影をしのぶことができます。

さらには由緒を見ると、康治2年(1143)に熊野権現を勧請したらしく、
その点でも神仏習合の所縁を感じますね。
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社自体はそれ以前から存在していたようですが、年代は明記されていませんね。

本殿前に昭和3年8月建立の狛犬が一対。
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台座の記銘によると、石工は名古屋の角田(?)大三郎。(←訂正:六三郎)
ご丁寧に“駒犬専門”という文字も彫られています。
名古屋の石工さんということもあってか、阿吽=獅子・獅子の組合せの点や
全体の印象などが岡崎型とイメージの被るところもありますが、
巻き毛の毛並みが豊かで、彫りのしっかりしたところにオリジナル性を感じます。

とくに注目は、吽形の足元で勝気な表情を見せている子獅子。
2012.06.09.26.JPG
口になにかを咥えているのですが、どうやらなにかの花のよう。
はじめは神仏習合の名残りから蓮の花かとも思ったのですが、
昭和の制作で習合の意識はすでになくなっている時代と考えているうち、
「獅子なんだから、やはりこれは牡丹でしょ」という結論に至りまして。
(もちろん、あくまで私見です。皆さんは何に見えますか?)
いづれにしても、こういうのは自分は今まで見たことがなく、
とても珍しいタイプだと思います。

社殿は一間社流造。
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ご祭神の六柱は男神女神混じっていますが、
千木は外削ぎで鰹木は5本の奇数と、男神の慣例に倣っています。
熊野の勧請を受ける前から祀られていたという
スサノオノミコトたちに準じた様式としたのでしょうね。

境内はとても厳かな鎮守の森に抱かれています。
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針葉樹広葉樹が入り混じり、スギ・ケヤキ・コナラなどの古木が
古社の歴史を感じさせるに十分な雰囲気を醸し出していました。
若沢寺遺構とこの神社が上波田地区の町なみ整備事業の
ベースとなったであろうことを考えると、なんだかんだいっても
今も昔もお寺や神社がまちづくりの核になるのだということが感じられます。

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上波田、若沢寺の所縁を訪ねてみた [寺社・狛犬]

前回エントリーで訪ねた上波田集落。
町並み整備のシンボル的存在の若沢(にゃくたく)寺に関係する
遺構一帯を画像に納めておらず、日を改めて再訪してみました。

火の見櫓もあった、集落の中心を貫く旧野麦街道。
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その西方の開けた場所でまず目を引くのが仁王門。
2012.06.09.4.JPG(茅葺きの上に鋼板を葺いています)
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正面広場が広くてとてもゆったりしています。
同じ整備事業では隣接する公園や公衆トイレも整えられ、
快適な町並み環境が出来上がっています。
まあ、きれいになった割に普段の人や車の往来がほとんどないのは
田舎ゆえ仕方ない部分もあるとはいえ、ちょっともったいない空気が。。。
2012.06.09.3.JPG(上波田公園)
2012.06.09.25.JPG(公衆トイレ)

股くぐりで有名な仁王様。
昔、ハシカが流行した折に仁王様の股をくぐると病が軽く済んだという故事にならい、
現在では毎年4月下旬に恒例行事として大勢の人を集めて行われているそうです。
2012.06.09.7.JPG(阿形。長野県宝です)
2012.06.09.8.JPG(吽形。同じく県宝)
(じゃんけんは吽形の勝ちwww)

若沢寺は真言宗寺院で天平勝宝年間(西暦750年前後)の創建と伝えられ、
信濃日光と呼ばれるほど隆盛を誇った名刹だったそうですが、
明治初年の廃仏毀釈により廃寺に追い込まれてしまいました。
上波田集落より少し山中に入ったところにあるかつての境内跡地は史跡となって、
いくつかの遺構が残っており、その参道入口にあたる集落にあっては仁王門のほか、
阿弥陀堂や田村堂、その他幾多の石仏群が往時の様子を今にとどめています。
2012.06.09.14.JPG(阿弥陀堂)
2012.06.09.15.JPG(阿弥陀如来坐像。松本市重要文化財)
2012.06.09.16.JPG(田村堂。写真はその覆屋です)
2012.06.09.17.JPG(これが田村堂。国重要文化財)
2012.06.09.12.JPG(線彫閻魔王坐像。市重要文化財)
2012.06.09.10.JPG(若沢寺の丁石。市重要文化財)
2012.06.09.11.JPG(丁石案内板)
2012.06.09.9.JPG(境内は詳しい由緒書きが多くて親切です)

田村堂はもと若沢寺の本尊を祀る厨子だったそうですが、
当寺を中興した坂上田村麻呂を江戸期になって以降祀るようになったものだそう。
普段は覆屋のガラス越しに見ることができます。

こうして現在残されているものを見るだけでも歴史を感じるに十分ですが、
その当時の境内がそのまま残されていたならば、松本平一円でも
トップクラスの寺院としてさぞかし名を馳せていたことでしょうね。
松本藩は藩主戸田光則みずから率先して廃仏毀釈運動に取り組んだことから
藩内の寺院は全国的にみても廃寺となった数が多いのだそうです。

ただ、廃仏毀釈は明治新政府により発令された“神仏判然令”をきっかけに
引き起こされた運動で、それ自体は政令の類ではありません。
この運動(騒動、暴動といっていいかも)の結果、多くの寺院が消失したことは
現代の歴史的価値観からは残念に思えてならない点も確かにありますが、
廃仏毀釈が行われた背景には、江戸期の寺請制度を悪用するかたちで
腐敗の温床となっていた寺院により苦しめられた住民の不満の爆発があるという説もあり、
特権を喪失して危機的状況に置かれた当時の仏教界に反省を促したとする評価など、
興味深い考察が存在するのも事実です。
もっとも、松本藩内で起こった廃仏毀釈は前述の藩主の行いなどから
全国的な一般認識とずれる点が確かにあるとは思いますが。

いづれにしても、神道関係者を中心に引き起こされた運動が
民衆の過剰反応を誘発したとする考察を含め、
歴史を単一的視点で見るのは難しいということを
この明治初年の廃仏毀釈からも読み取ることができますね。

この仁王門や田村堂などの隣接地には波多神社がありますが、
これについては次の記事にてエントリーしたいと思います。
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