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写真という名の、町の記憶装置 [雑感]

大町市の麻倉を久しぶりに訪問。
黒部ダム建設当時の写真をパネル展示しているということで、
もしかしたら穂高町の火の見櫓について何か分かるかもしれないと思い、
仕事の合間に車を走らせて見に行ってきた次第。

黒部ダム建設の資材置き場で監視塔として使われていた望楼が穂高に移築され、
現在に至るまで穂高町の火の見櫓として活用されてきたという話。
経緯を知る当時穂高町の消防団員だった方々にヒアリングして
一定の裏取りは出来ているとはいえ、実際に大町に立っていた当時の画像などの
物証がまだないために、どうにも心が落ち着いていないのが実際のところ。
で、残念ながら展示されていたパネル写真には往時の監視塔というか
資材置き場そのものの写真はなく、懸案の証拠探しはおあずけ。

しかし、黒部ダム建設現場を記録したその写真の数々は
非常に生々しくて貴重なものばかりで、多いに堪能できました。
とくに同時代の大町の市街地の様子を写した写真などは、
この町の記憶がしっかりと画像のなかに息づいているようで、
こういうものが大切に保存されていることを嬉しく思いました。

写真(カメラ)というツールは、日本ではすで幕末には入り込んでいたようですが、
実際に大衆化のかたちを取るようになるのはもっと後の時代になってから。
ましてや大町や安曇野などといったド田舎で、明治大正期の写真の記録は
かなり貴重な存在といえます。

今回のパネル展は黒部ダム建設当時ですから昭和30年代ということで
まだライブで記憶を残すご年配の方々もいらっしゃるわけですが、
それでも少しずつその記憶が薄れ失われていく自然の流れの中で
こうしたモノクロの写真たちが語りかけてくる町の記憶というものは、
これから続く未来のまちづくりにとって重要な役割を果たしてくれるはずです。

松本地方では郷土出版社という地元の出版社が
地域の古写真を集めて写真集を何冊か出版していますが、
そこに掲載されたもの以外にも、まだ個人レベルで古写真を所有されているまま
アルバムや蔵の奥深くに眠っているものがあるかもしれません。

現在と未来のまちづくりは積み重ねてきた過去の歴史の上に成り立つもの。
町の記憶資料としての古写真の保存活用は、
町全体で進めることも時には必要なことではないかと思う次第です。

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